2008/09
電気の先達君川 治


 
エレキテルの道理を諭す図
橋本宗吉「エレキテル究理原」挿絵より

蛙鼠雀を気絶させる図

五星運行の理を示す図

天の火を取る図

平賀源内のエレキテル
 ヨーロッパから日本にきた宣教師がローマのイエスズ会本部に送った報告書に、「日本に布教に来る宣教師は先ず数学を勉強してくること」との記述がある。日本人は数学に非常に興味を示すので、先ず数学を教えて信用を得て、その後キリスト教を布教すると効果があるというのである。
 電気についても日本人は非常に強く反応している。明治の初めに志田林三郎、藤岡市助ら優れた電気技術者が育ち、その後も八木秀次・宇田新太郎の八木アンテナ、岡部金次郎のマグネトロン、松前重義の無装荷ケーブル、高柳健次郎の電子式テレビなどは世界に先駆けた発明がなされている。
 人物近世エレキテル文化史という本に、大阪の傘屋職人で蘭学・医学を学んだ橋本宗吉が書いた「エレキテル究理原」が紹介されている。
 橋本宗吉(1763−1838)はエレキテル実験の祖といわれており、静電気を使って物を持ち上げたり鼠を気絶させたり、色々な実験を試みてこれを説明している。橋本宗吉は「エレキテル究理原」の巻頭言で、「エレキテルは奇物とか玩弄物などと言われているがその道理を知る人は殆どいない。自分は蘭書を読んでその道理を試し、門人に口述し、理解し易いように挿絵で示した」と述べている。面白い実験が沢山あるが、3つの実験例の挿絵を見て想像を逞しくして欲しい。

 この中で驚きは「泉州熊野にて天の火を取りたる図説」との絵が出ている。庭の背の高い木の枝に針金を結びつけて、これをたらして絶縁版の上に立った男がこれを持ち、もう一人が地面に立って互いに指先を出して近づける。雷雲が近づいてくると指と指との間に火花が飛ぶというオソロシイ実験である。この雷実験をした家は旧岸和田藩の代官をしていた中家で、現在、重要文化財として保存されている。中家は阪和線熊取駅から歩いて15分ほどの所にあり、主屋は入母屋造り・茅葺きで、架構形式で柱が少なく広い土間や広間は建築様式として貴重らしい。
 佐久間象山(1811−1864)は信州松代藩の下級武士の子、少年時代より秀才の誉れ高く、江戸に出て朱子学・漢学・和算を学び、次に蘭学・洋学を学び、オランダ百科事典より西洋の知識を身につけた。伊豆韮山の江川坦庵に入門し西洋砲術を学ぶ。佐久間象山は和魂洋才に通じ、江戸深川に砲術の塾を開いた。門下生には勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など有能な人材が集まった。
 松代の佐久間象山記念館に行くと彼が開発した多くの機械が展示されている。地震予知機、電気治療器など怪しげな機器であるが自力で考えているところが素晴らしい。象山夫人(勝海舟の妹)の病気がこの治療機で治ったと説明してある。
 長野電鉄松代駅に近いところに日本で最初に電信を行った鐘楼が残っている。真田昌幸が1624 年に設けたもので、現存する鐘楼は1801年に再建されたもの。この鐘楼を使用して佐久間象山が北東約 70mにあった御使者屋との間に電線を張り、日本初の電信実験を行い成功している。佐久間象山は電信の祖といわれている。
 エレキテルの祖といえば多くの人が思い出すのは平賀源内である。平賀源内(1728−1779)は「江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と言われるほど活躍範囲が広い。江戸開府400年記念の平賀源内展が江戸東京博物館で開催された。香川県にある平賀源内遺品陳列館で見たより遥かに多くの展示品であった。源内は橋本宗吉や佐久間象山より1時代前の人で、長崎に遊学してエレキテルを知った。壊れたエレキテルの箱を貰いうけ、研究を重ねて修理して作り上げたのは驚きである。静電気に関する原理原則など全く解らずに、オランダの書物を手引きとして独力で研究する執念はエレキテルの祖の3人の中でも第一級である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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